「無音がつらい」のと「難聴/聴覚障害」の違いとは?無音空間が苦しい理由と聞こえない生活の実態

耳の病気

「本当の無音の空間にずっといると発狂したくなる」と聞いたことがある人もいるでしょう。一方で、難聴や聴覚障害で『生まれつき/後天的に音が聞こえない』人たちは平気で暮らしている――この差にはどんな理由があるのでしょうか。本記事では、無音で感じる“違和感”と、聞こえない生活の現実の両面から、その違いを解説します。

無音・“音のない空間”がつらく感じられる理由

人間の脳は、常に何らかの感覚刺激(音・光・振動など)を受け取ることに慣れています。特に耳から入る情報は、空間の広さや自分の位置、環境の安全性などを把握する上で重要です。そのため、極端に音がないと「空間感覚の喪失」「内側の音の増幅」「無の恐怖」といった不快感を覚えやすいのです。[参照]

たとえば、無響室(反響や環境音がほぼゼロになる研究用の部屋)に入った人の報告では、呼吸音や心臓の鼓動、水の流れる音、あるいは“自分の体の中の音”がやたらと気になり、長時間いると「吐き気・めまい・気持ち悪さ」を感じることがあるといいます。[参照]

では、難聴・聴覚障害の人はなぜ平気なのか?脳と感覚の順応性

難聴や聴覚障害がある人のなかには、生まれつきあるいは幼い頃から「聞こえない/聞こえにくい」環境で生活してきた人も多く、その場合、脳や感覚が「音なし/少ない」状態に慣れています。つまり、“無音”が“普通”であり、“音あり”が特別、という認識になりやすいのです。[参照]

また、聴覚情報が少ない分だけ、視覚・触覚・匂いなど他の感覚に頼ることで“空間”や“コミュニケーション”を補うことが多く、感覚全体でバランスを取って生きる能力が育まれていきます。こうした適応が、無音を「苦痛」と感じない理由のひとつと考えられます。[参照]

「聞こえない」ことは、必ずしも“苦痛”や“問題”ではない — メンタル面の多様性

確かに、聴覚障害のある人はコミュニケーションの障壁、情報の取りこぼし、社会の理解不足などからストレスや孤独を感じやすいという研究があります。[参照]

しかし同時に、現代では手話、字幕、テキストチャットなど多様なコミュニケーション手段、そして共生社会の取り組みが進んでおり、「聞こえない/聞こえにくい」ことを前提としても豊かな社会生活を送る人は多くいます。重要なのは「聞こえる/聞こえない」のどちらかではなく、「どの感覚に頼るか」「どう環境やコミュニケーションを整えるか」です。

無音がつらく感じる人と、聞こえない人の間で起きる“ズレ” — 理解すべきこと

無音が苦しい人の感覚は「今まで慣れてきた“音あり”がなくなる不安定さ」「自分の内部感覚(呼吸や鼓動など)が過剰に意識されるストレス」に起因するもので、これはあくまで“音を聞いていた脳”が抱えるものです。

一方で聴覚障害のある人は、幼少期から“音なし”を当たり前として成長することで、脳や感覚が“無音”前提の適応をしているため、無音による不快感や“発狂感”といったものを感じにくい — つまり、両者の感じ方は根本的に異なるのです。

どちらが良い/悪いではなく、「感覚の違い」を理解することが大切

無音がつらいという経験も、「難聴」で聞こえないという経験も、どちらも人間の感覚のバリエーションのひとつです。大切なのは、「自分にはこういう感覚がある」「他人には別の感覚がある」と認識し合い、お互いを尊重することです。

もし「無音がつらい」「音がないと落ち着かない」と感じたら、無理に無音に耐えるより、好きな音やBGMを適度に流す、自然の音を取り入れるなど“快適な音環境”を整えることで、精神的な安定につながるでしょう。同様に、聞こえない人も、聞こえないゆえの感覚や適応を大切にできる社会であってほしいものです。

まとめ — 無音と難聴は似て非なるもの。「慣れ」と「感覚の違い」がカギ

無音がつらいと感じるのは、「これまで音に頼ってきた脳」が急に“何もない”状態に置かれたときの違和感・不安・過剰な自己感覚の影響です。一方で、難聴・聴覚障害の人は生涯を通じて“無音または静かな世界”に慣れ、他の感覚やコミュニケーション手段を使って生活しています。

つまり、「無音がつらい人の感覚」と「聞こえない人の感覚」は、そもそもの前提が異なります。どちらが正しい/正しくないではなく、単に「感覚の違い」。この違いを理解することが、相互理解や共生の第一歩になるはずです。

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